【戦前】村の仕事・一日・夜の生活

目次

5. 村での生活 ④大人たちの仕事

6. 村の一日

7. 村の男女(うふふ)


 5. 村での生活 ④大人たちの仕事

上槙の村の人たちは、どうやって生計を立てていたのだろうか?基本的には農業、そして林業によってだ。

まず、どの家も田んぼでお米を作っていた。

上槙の田んぼ(2019年6月)

小作(地主の土地を借りて耕す)の家も多かったようだ。じいちゃんとこは、狭くて収穫量も少なかったが自分の土地だった。

お米作りに関しては、忙しいのは5月の田植えと10月の収穫くらいで、一度田植えが済んだらあまり仕事はない。実るのを待つだけ。ただ、雑草が出てくるので、それを取るのは「女子供の仕事」だった。秋に収穫が終わると、冬には二毛作で麦を植えた。穀物以外では主に自家消費用で野菜を作っていた。たくさんできたら売りに行くこともあった。

農業以外に上槙の男性たちの多くが従事していたのが「炭焼き」材木作り。(まさに『鬼滅の刃』の世界…!なにせ、大正生まれのじいちゃんばあちゃんの話なので。)

炭は当時、都市部で七輪などを使ってご飯を煮炊きするのに必需品だった。要はガスの代わりだったと言っていい。上槙は山の中にあったから、仕事場に取り囲まれていたようなものだ。男たちは朝からお弁当をもって、自分たちが担当している山に行く。(1時間くらい離れた山に歩いて行く人もいた。)作業するところに炭焼き小屋を作って、そこを拠点に仕事したのだ。私のひいひいじいちゃん(幸恵おばあちゃんのおじいちゃん)も、炭焼きをしていたらしい。

また、銃を持ってをする人もいた。でもそれは「猟師」として生計を立てるというよりは趣味の域に近かった。当時、お金にならないことをするのは「あそんでいる」と言われ、猟も例外ではなかったようだ。山には鹿はおらず、たまにイノシシ・キジ・ウサギを打つくらいだった。獲物はみんなで分けて食べた。

女性の仕事家事畑仕事。機織り技術を持っている人は「手織り木綿」を織った。

また、お盆・お彼岸の時期には、お仏壇・お墓に備える「シキミ(シキビ)」の枝を朝早く山に採りに行って、近くの集落を売り歩いた。これは良い現金収入になるが、他の家の奥さんたちも同じことを考えているので、「我さきに…!」と朝4時くらいには起きて行ったらしい。うっかり他の人より出発が遅くなると、近くの集落でもう商売されてしまい、さらに遠くの集落まで売りに歩かないといけなかった。

進じいちゃんが住んでいた家の近くで、シキビを手折ったノブエばあちゃん。(2019年6月)

村の中に「商店」のようなものはなかった。それでも、いくつか生活必需品を作る家があった。

「たいやさん」(たらい屋さん)・・竹を使って桶やたらいを作る

「大工さん」・・ちゃぶ台・家具から家まで作る

「左官屋さん」・・家の壁を塗る

他に、畑や山仕事で使う斧や鎌を作る「鍛冶屋さん」も昔、村に2軒くらいあったようだ。その家々は「名前だけ残っていた。」とじいちゃんが言っていた。

その他必要なものは、岩松の町まで片道3時間かけて買いに行った。


ほかに、村の各家庭では「お蚕さま」を飼っていた。

蚕は絹糸(生糸)を作る虫で、生糸は綿織物と並んで当時の日本の重要な輸出品だった。そのため、蚕は村の人々にとっても貴重な現金収入の元だった。蚕は冬以外は春・夏・秋いつでもできる。まず、(さん)(しゅ)工場から蚕の卵を飼ってくる。卵は何十個も紙に産みつけてあった。そして家の中を囲って暖かくして、そこにお蚕様を入れた棚を置き、桑の葉っぱをエサにして大事に育てた。1ヶ月ほどすると繭ができる。そうすると仲介商人が来て、各家庭からサナギごと繭を重さ単位で買い取り、それを製糸工場に持っていく仕組みになっていた。製糸工場は近くの町岩松にあった。工場では「女工さん」たちを使っていた。ただ、上槙からはそこの工場に女工さんをしに行った女性はいなかったそうだ。一方、綿織物の工場が同じ愛媛県内の三瓶にあって、そっちの方にはじいちゃんのお姉さんも女工さんとして働きに出ていた。

 6. 村の一日

※ちなみに、以下に出てくる時間はあくまで大まかなものだ。各家庭にゼンマイ式の振り子時計はあったのだが、よく止まっていたようなので。

起床:忙しいときは4~5時の「一番(どり)が鳴いた頃」。つまり、飼っているニワトリが朝一番に鳴いた時間。(忙しい時というのは、田植えや収穫、女性がシキミ売りに行くときなどだ)

普段は5~6時「外が明るくなれば」起きた。そしてお母さんたちは朝食の準備。(ご飯をかまどで炊くので1時間かかる。)

朝食:起きてから1時間後。たいてい家族そろって食べた。

   →その後、子供は学校へ(45分授業6時間)。大人の男性は田植え・収穫の時以外は弁当持参で山へ。大人の女性は洗濯や畑仕事。

昼食:12時ごろ

   子供はお弁当持参か、家へ食べに帰る。女性は家で食べる。

   男性は山でお腹がすいた時にお弁当(ほとんどご飯のみ)。炭焼きに使う火でやかんにお茶を沸かして飲んだ。→その後、再び仕事

15時ごろ:子供は学校から帰宅。大人は、日の長い時期は「おこんま」(間食)を食べてもうひと仕事。

日没:男性が山から帰途につく。女性は家の中でランプを点けて、夕飯の準備。

夕食:18~19時台。

お風呂:毎日は入らずに2日~7日に一度の頻度。準備が早くできれば夕飯前でも入った。薪で沸かす五右衛門風呂。お風呂がない家もあり、お風呂を沸かしていると隣の人も「お風呂入れさせて」とやって来た。(家から煙が見えるとお風呂を沸かしているのが分かる。)

夜なべ(大人):縄をなう、炭俵(すみだわら)を編む、など。

就寝:22時までには床に就いた。

ちなみに、明かりはランプとカンテラ(ブリキでできた、取っ手付きのアルコールランプ風の簡単な照明)や、ローソクだった。夜、外を出歩くには提灯も使った。

また、水道も村にはなかった。あったのは、そして井戸。ばあちゃんの生まれた家は山の中腹にあって、すぐ近くから川の源流が湧き出していたので、そこから(とい)を使って水を引いていた。そしておトイレ。もちろん水洗であろうはずもなく、ぼっとん便所。ちり紙もなし。短く切ったワラがトイレットペーパーの代わりだった。甕の中に排泄物を貯めて、いっぱいになったらそれをくみ取って、肥料として畑にまいた(「下肥(しもごえ)」と言った)。ただし、そうしていると回虫の卵が野菜に付着して、そのまま食べてしまうこともあった。だから対策として、小学校で子供たちに虫下し(駆虫剤)を呑ませたようだ。

7. 村の男女(うふふ)

 もう村の生活についてはかなり書いたので、ここらでまとめても良かったのだが、この話をじいちゃんから聞いてとても面白かったのでご紹介したいと思う。上槙での恋愛や結婚の話だ。

 まず、恋愛はご法度じゃなかった。ただし、「お付き合い」の方法は現在とはかなり違った。恋人同士が昼間、村の中を手を繋いで歩いているようなことはなかった。「(恋人たちは)夜一緒にいるんだよ」とほくそ笑んだ。なるほど。夜ですか。

 次に、私のおったまげた話が夜這(よば)い」だ。上槙での夜這いはこんな感じらしい。まず、夜に年頃の青年たちが何人か(!)連れだって、目当ての女の子の家へ行く。そして女の子が寝ている所へ忍び込んで、彼女を誘う。彼女がOKしたら、訪ねて行った青年みんなとその女の子が一つの布団の中で寝るらしい。

「えぇーそんなことしたら女の子が大変じゃない!」

私はその話を聞いた時、びっくりして叫んでしまったが、じいちゃんは笑っていた。女の子の親も当然、青年たちが訪ねてくるのを察知するはずなのだが、「親は見て見ぬふりをする(!)」らしい。なぜなら、娘が少しくらいもててくれた方が嫁の貰い手も期待できるだろうから・・。 実際、ばあちゃんの所にも「夜這い」が来たことがあった。しかし、少女だったばあちゃんは怒鳴った。

「何しに来た!帰れ!」

・・そうしたら、若者たちは帰っていったそうな(笑)。

 ともかくも、村での若者たちの「夜の生活」はそんな状態だったので、できちゃった結婚もたまにあった。夜這いで子供ができて、相手にお嫁にもらってもらえないケースもあったそうだ。そういう場合は、子連れでお嫁に行った。

 最後に村での結婚の話。これも現在とかなり異なる。恋愛結婚も認められていたが、たいていの結婚は「仲人さん」が取り持った。仲人さんは誰がやったか?近所の世話好きのおじちゃんおばちゃんが夫婦でやった。そういうお世話(お節介?)が好きな人たちがいたようだ。そういう夫婦の間で「田中さんちの太郎くんと渡辺さんちのはなこちゃん、くっつけたらええんやないの?」・・きっとそんな会話が発端になって、結婚話が始まっていったのだ。

 実際、じいちゃんとばあちゃんの結婚も「仲人さん」の仕事の賜物だ。二人はもともと親戚同士だったので、お互いのことは知っていたが、じいちゃんは結婚前、一度もばあちゃんに話しかけたことがなかった。

 「お隣さんがお嫁さん(ばあちゃん)をもらってきてくれた。」(じいちゃん談)

当時じいちゃんは26歳、ばあちゃんは21歳。お互い戦争末期は中国の満州と南部にいて(ばあちゃんは従軍看護婦だった)、終戦後ほぼ同じ時期に帰郷したところだった。じいちゃんは満州で憲兵をしていた時に、徳島出身の「よっちゃん」という「良い人」がいたのだが、電気も水道もない山奥の上槙に彼女を呼ぶことはできず、その上終戦のゴタゴタでろくに挨拶もできず離れ離れになってしまっていた。ばあちゃんは結婚話が出た当初しぶってお母さんを泣かせたそうだが、結局はお嫁に行った。ちなみに、当時の村の結婚適齢期は女性が18~20歳前後、男性が25歳前後だった。

コメント

  1. […] 幸恵ばあちゃん達が暮らした「おおたね」(家号)と幸恵ばあちゃんの実家「のぼりはえ」(同)を見て、おおたねやその途中でノブヱばあちゃんがシキビ(こちらの記事参照)や紫陽花、サンキラの葉(蒸し饅頭の下に敷く、ツルツルした葉っぱ)を収穫して帰った。 […]

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