ナマステ🙏 インキョ人みやまです。
いつもインドインド言ってる人が今日はどうしたの…?と思われるかもしれませんね。
実は、私やインドの人にとってはアフガニスタン(アフガン)はけっこう身近。
そのエピソードも含めて、今回はお話ししていきますー。
インド留学のとき、アフガンの人と友達になった(2012年)

アフガニスタンって、インドの隣の隣の国。
私のインド留学時にも、アフガニスタンから留学生の男の子3人組が来ていました。
社交的なハディ。顔立ちが私たち日本人にそっくりなジャマール。「アラビアのロレンス」みたいな中東系の美男子ナゼル。
3人ともアメリカ系の奨学金をもらって来ていたみたい。
アフガンではインド映画が人気らしく、それをよく見ていたハディたちはインドのヒンディー語がしゃべれました。(私は当時話せなかったので、羨ましかった‥!)
私は社会福祉の修士課程にいて、ハディたちがいたのはカウンセリング修士課程。
それでも、私たちの留学生活のはじまりは留学生のグループランチだったり、
下宿先が決まるまでは1週間くらい留学生みんなで学校のゲストハウスに泊まっていて、
私たちの間には同志のような絆ができていきました。
留学生のみんなで学内のイベントでダンスしたり、たまに外食にも行ったり。
そして世界中で見られるFacebookのおかげで、2014年に日本に帰ってからも私はその3人と繋がれているのです…。
アフガニスタンで政権崩壊→友達がみんな難民に(2021年8月)
それまでアフガニスタンの政権を支えていたアメリカ軍が撤退した途端に、タリバンが政権を掌握。
たくさんの人がタリバン政権による不自由な生活から逃げようと、難民になりました。
(詳しくは、こちらの日本国際問題研究所のページが参考になります。)
この直後、3人の友達も家族を連れて国を去りました…。(そのお父さんお母さんたちは大体アフガンに残ったようです。)
Facebookで教えてもらった最初の行き先は
- ハディはトルコ
- ジャマールはタジキスタン(アフガンのお隣)
- ナゼルはベルギー
でした。
当時、ナゼルが「難民キャンプにいて、寒いし大変だ。」みたいなことを言っていたのが記憶に残っています。
その後、1年ほどで3人の友達と家族はみんなカナダに移り住みました。
また、ハディたちの1学年下でインド留学していたRちゃんも、家族でアメリカに移住しています。
移民国家の北米はアフガン難民の受け入れ先になっているんだな…と感じています。
松戸でバブリさんとお友達になった(2021年11月)

そんなある日、松戸で
私と長女は人づてに聞いたアフガニスタンのドライフルーツ&ナッツのお店「アフガンサフラン」へ。
そこでアフガニスタン出身のバブリさん・奥さんの愛さんと出会いました☺️
二人ともとっても暖かでフレンドリー。
さらにバブリさんは、ハディたちみたいにヒンディー語を知っていたので、そういう意味でも多分お互い知り合えて嬉しかったんだと思います♪
長女はバブリさんたちのお店に行くたびに
ドライフルーツの試食をたっくさん頂いて、胃袋を掴まれていましたw
(※アフガンサフランさんは2025年5月をもって松戸での営業を終了し、神奈川県に移転されました。)

バブリさんのお店でZさんと知り合った(2022年秋)
ちょくちょくアフガンサフランのお店に通っていた私。(2022年6月から多文化スペース・バナナかぞくも始めていました。)
2022年のある日
お店に行くと、一人のアフガン男性(40代くらい)が座っていました。
「この人はカブールの大学で先生をやっていたの。松戸に来たばっかり。」とバブリさんが紹介してくれました。
それがZさん。
バブリさんは、アフガン大使館でお仕事をしていたこともあって、
日本に渡ってくるアフガンの人たちの支援もしていました。
Zさんはタリバンによる政権交代のあと、日本で難民認定を受けて、家族で暮らすようになっていました。
はじめに半年か1年近く都内にいて、そのあと松戸に引っ越して来たと言っていました。
端から見ていた「難民」生活
「私たちはおもてなしするのが大好きなんだ。」
Zさんは英語が話せたので、会ったときに自己紹介をして、
毎週水曜日に多文化スペースをやってるから(当時)遊びに来てね、と言ったらとても喜んでくれていました。
そして、なんとその日のランチをご馳走してもらっちゃいました!
ちょうど会ったときの時間がランチ前で、
バブリさんの知り合いが近くにレストランを開いた、という話を聞いて、とんとん拍子でそんなことに…。
レストランでZさんが言っていたのが、
「私たちアフガン人は人におもてなしするのが大好きなんだ。だからご馳走するんだよ。」
と。
二人でパスタを「多いねw」と言いながら食べました。
その後、Zさんは実際に私が当時運営していた多文化スペースに一度か二度会いに来てくれました。

「難民」に与えられる公的サポート
当時、Zさんは5人家族(Zさんと奥さん、息子さん、娘さん2人)。
松戸駅からバスで10分くらい行った先のアパートに住んでいました。
他にもう一人、息子さんがいてトルコで出稼ぎをしていたらしいです。
さて。
やや記憶が曖昧なのですが、Zさんは難民認定を受けたことで
- 半年ほどオンラインで日本語講座が受けられる
- 何ヶ月かの生活費が支給されている
と聞きました。
私にランチをご馳走してくれたのも、生活費をもらっていた時期だと思います。
一度、私が夕飯時に外を歩いていて、駅の近くのカレー屋さんでZさんと奥さんが食事をしているのを見かけたこともあります。
お手伝い①娘さんの夜間中学入学
2023年の2月か3月。
海外のメッセージアプリWhatsappでZさんから「手伝ってほしい。」と言われました。
娘さんの一人が公立中学校を卒業(一応)するので、その後に勉強を続けるため、公立夜間中学に入学したい、と。
Zさんに指定された日時に、松戸市教育委員会のビルの下で待ち合わせ。
臨月のお腹でほてほてと歩いて行きました。
そこにはZさんと奥さん・娘さんの3人が待っていました。
イスラム教の「こんにちは」でご挨拶。
みんなで担当部署に行き、必要書類を日本語で書くお手伝いと、ガイダンスの案内の通訳をしました。
奥さんは少しヒンディー語が分かる、との事でしたが、
あまり会話できませんでした。娘さんはヒンディー語も英語も知らず…。
奥さん・娘さんは疲れているように見えました。
(実際、アパートから松戸駅に出てくるのも一仕事だったと思います。奥さんは足が悪くて、でもアパートの5階に住んでいるのにエレベーターがないと聞きました。)
お手伝い②副業の就活
Zさんはハローワークから三郷にある工場を見つけて仕事に行っていました。(お弁当か何か食品の工場)
当時、長女を幼稚園バスに送っていくとき、坂川沿いの道で朝9:30ごろに何度かZさんが通勤で歩いてくるのに出会いました。
『Zさんちょっと痩せたかな。』と感じていました。
そんな2023年夏のある日。
ZさんからWhatsappで手伝ってほしいとメッセージが来ました。
我が家を訪問した彼が持ってきていたのは、履歴書系の書類。
今の日中の仕事だけでは生活費を賄えないので、夜間に他の工場で働きたい、と言っていました。
書類を書くお手伝いをして、知り合いにもらったインドの袋麺とビスケットを渡してバイバイしました。
おせっかい
副業の就活のお手伝いをする頃には、
Zさんは生活が苦しいんだろうな・・と感じていました。
知り合いの生活支援の団体にお米をもらっている、という話も聞こえていました。
私はお節介で、
愛媛のおばあちゃんからみかんがたくさん来た時や、もらい物があった時など、
WhatsappでZさんに連絡して、仕事帰りのZさんに20時くらいに我が家に寄ってもらって、
おすそ分けをしてみたりしました。
また、何ヶ月に一回、くらいのペースで思い出した時に「元気ですか?」とWhatsappでメッセージを送ったりしました。
たいてい「元気だよ、ありがとう。」とお返事が来ていました。

「今アメリカにいるんだ。」(2024年5月)
衝撃の返信
2024年5月。
しばらくZさんに連絡をとっていなかったので、Whatsappでまた「Zさん元気ですか?」と送りました。
そうしたら、驚きの内容の返信が!
「妹や親戚に会うために、アメリカに来てるんだ。カリフォルニアにいるんだよ。」
家族で渡米するようなお金があったんだ…!とびっくりしました。
アメリカの電話番号に変更
すると、その次の週くらいに
WhatsappでZさんの連絡先のところに、
“(Zさん)has changed their phone number to a new number” (Zさんは電話番号を新しいものに変えました。)
という案内が出ていました。(もともとは日本の番号でした。)
Whatsappでは変更先の番号も見ることができました。
番号のはじめの国コードはアメリカ。
『これは、本格的にアメリカに移ったのかな…。やっぱり日本で生活していくのはなかなか厳しかったのかな。』と思いました。
実際、しばらくしてからZさんの新しい番号に連絡してみました。
みや「Zさん元気ですか?アメリカにいるの?」
Zさん「アメリカにいるよ。元気だよ。可愛い娘さんたちも元気?」
みや「子どもたちも元気だよ。もう日本に帰ってこないの?」
Zさん「帰るよ。子どもたちが元気そうで嬉しいよ。」
みや「アメリカはどうですか?あなたも家族もそっちでの生活を楽しんでる?」
Zさん「日本は素晴らしい国だったが、アメリカは日本とは違う。交通機関はなし、社会的なサポートもなし、食べ物も不健康。一つ良いのは言葉が英語なこと。」
…こんなやり取りをしました。
日本では、言葉の壁が大きかったんだな…と思いました。(実際、私もインドで最初そうだったので。)
戻ってこないんじゃないかな
それから数ヶ月後。
私はドライフルーツを買うためにバブリさんのお店に行きました。
バブリさんとZさんの話をして、
みや「Zさんは帰ってくる、って言ってたけど。実際どうなんでしょうね…。」
バブリさん「もう戻ってこないんじゃないかな…。アパートももう出ているし。」
みや「そうか…。」
うん、私もそうだと思います。
おわりに〜日本って…。〜

ここまで長文にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
そもそも日本では、外国から来て難民認定をもらうこと自体かなりハードルが高いです。
そんな中でZさん家族は、難民認定をもらってビザの上では問題がなくても、
Zさんと息子さんの肉体労働だけでは家族5人を養うには厳しく、言葉の壁も大きかった…。
彼らがアメリカに行ったと知ったとき一瞬、『そんなお金あったんだ。』と私は思いましたが、きっと違いますね。
実際はたぶんZさんが日夜働く中で、生活費とは別にすごい努力をして渡航費を貯めたのでしょう…。
私は結婚前、店長をしていた和菓子屋でも、3年だけ教師として働かせてもらった学校でも
いわゆるワーキングプアでした。
日本人はもちろん日本で言葉の壁はありませんが、それでもいっぱいいっぱいで暮らしている人たちもいて、
ましてやそれに言葉や文化のハードルがあったら…。(もちろん、そんな中でも頑張っている外国の人たちもたくさんいて。)
『自分に他にできたことがあるんじゃないか。』
そう思ったり、いや、個人で支えられるレベルじゃない、問題はもっと大きい何かだ…。とも考えたり。
ひとまずは、アジアの「先進国・日本」で端から見ていた話ではありますがこんなことがあって、一つの家族がこの国を後にした…。
そんな話をこれを読んでくださったあなたと共有できると嬉しいです。
もっと多くの人にとって、この国が住み良いところとなりますように…。
