【戦後〜現在】戦後の上槙・上槙とわたし

目次

 1. 戦後の上槙

 2. 上槙とわたし


1. 戦後の上槙

ここまで見てきたように、私のじいちゃんばあちゃんが生まれ育った村、上槙は町からだいぶ離れていて、周りも山だったために開発が遅れ、戦時中まで江戸時代とさほど変わらない生活をしていた。電気がやっとこさ通ったのは、戦後何年かしてからだ。

私の父が上槙で生まれたのもちょうどその頃。

ただ、程なくしてじいちゃんが東京で仕事を見つけたので昭和28年(1953年)に一家は東京に移住した。当時父は5歳。だから父はほとんど上槙での思い出がない。

一方、私の母も昭和32年(1957年)に上槙で生まれた。母の親は、幸恵ばあちゃんの弟の彰さんと、同じく上槙出身のノブヱさん。つまり母は幸恵ばあちゃんの実家で生まれ育った。

母が小学1年生の1学期まで一家は上槙にいた。その後は近くの街、宇和島に移った。そうやって、どんどん上槙から人が町や都市に出て行った。ちなみに、母が1学期だけ通った上槙の小学校で、同級生は男の子が6人だけだった。


2. 上槙とわたし

私がはじめて上槙を訪れたのは小学生の時。1990年代のことだ。

私にとっての「田舎」は、母方のじいちゃんばあちゃんが住む宇和島市。

上槙はそこからさらに車で1時間。(戦前、ばあちゃんたちは同じ道のりを6時間かけて歩いた…すごい、すごすぎる。)

ひいじいちゃんが開いたという山道は、今ではきれいに舗装されているけれど、くねくねのカーブの連続で、山道の運転に慣れている人でないとなかなか難しい。こうやって車で行くだけでも遠いのに、ここを自分の足だけで行った人たちがいたなんて。

宇和島側から上槙への道。山道を登って、峠に差しかかった辺り。ここから少し下ると、上槙に到着。

上槙にはビルやマンションなんてない。

村の真ん中を川が流れていて、その左右はだいたい田んぼ。

四方を山に囲まれて、集落は川と同じ方向に細長く伸びている。少ない平地は田んぼや畑になっている。山がそそり立つきわの所に日本家屋がぽつ、ぽつと建つ。

ずっと前に閉校してしまった小学校の校舎があるあたりに、民家が少し集中していて、そこに2016年頃までは食料雑貨の小さなお店が一軒やっていた。(2019年に上槙を訪ねた時、もうお店はしまっていた。)

その近くに母方の親戚の家が2軒ある。平屋建ての小学校には運動場がついていて、その横にはお宮がある。じいちゃんばあちゃん達が通い、母が1年生の1学期だけ通った小学校。

私が訪ねたころの上槙は、もう都会と同じように電気もあっておトイレも水洗だった。村の中の道もアスファルトで舗装されていた。ただ、子供心にもなんとなく「さびしいところ」というイメージがあった。外ではたまに鳥が鳴き、川が流れている。家の中では柱にかかった時計の秒針がコチコチ言っている。人も車もたまにしか通らない、時間の流れがゆっくりな場所。


一度だけ、小6のお正月に上槙へ行ったことがある。

その時ばかりは、親戚が各地から子連れで20人くらいは集まってきていてにぎやかだった。

田んぼの脇を、みんなでかけっこしたりして遊んだ。子供心に、

『わたし今、昔の村の子どもみたいに遊んでる!』

っていう充実感があった。


それ以外の時、上槙で母とばあちゃんが訪ねていくのはみんなおじいさんおばあさんだった。普段、子供や若い世代の人たちはどれだけいたのだろうか。一人だけ30〜40代のお兄さんもいて遊んでくれたが、のちにその人は自殺してしまった…。

親戚の「おじちゃん」「おばちゃん」たちは最近まで上槙でお米を作っていた。毎年収穫が終わると、30kgくらい入る大きなごつい紙袋に入れて、宇和島のばあちゃん経由で送ってくれた。

また、一人のおっちゃんは狩猟免許を持っていて、たまに「獲物」のイノシシやシカの肉がこれまたばあちゃん経由で何回か送られてきた。

シカ肉の味は覚えていないが、イノシシ肉は硬くて生臭くて、しょうがをたっぷり入れて煮たものでもあまり好きになれなかった。

普段から東京で、やわらかくてクセのない牛・豚・鶏のお肉に甘やかされてきた小学生には、わざわざ珍しいお肉を送ってくれたのをありがたく思う想像力もなかった。今考えると申し訳ない。おっちゃん、ごめんね。ありがとう。