【戦前】村での生活②子供③医者迎え

目次

 3. 村での生活 ②子供たち

 4. 村での生活 ③病院もなくお医者さんもいなかった

 3. 村での生活 ②子供たち

 じいちゃんばあちゃんの時代は子だくさんだった。じいちゃんは3人きょうだい。ばあちゃんは8人きょうだい(彼女の弟の一人が私の母方のじいちゃん。そして、その8人以外に生後まもなく亡くなったり、19歳で結核で亡くなった弟も含めてもう3人いた)。また、母方のばあちゃんは5人きょうだいだ。

 そんなにたくさん子供がいても、上槙には保育園も幼稚園もなかった。そして大人たちは仕事に忙しかった。必然的に小さな兄弟の世話は上の姉や兄がすることになる。それに加えて、ばあちゃんの実家では「おばあさん」(ばあちゃんのお父さんのお母さん)が発狂の末、早くに亡くなっていたので、家事の負担(お皿洗いなど)も上の姉3人(ばあちゃんは次女)には降りかかった。

 上槙の学校は尋常小学校が一つあるだけ。それより上の学校は村を出ないとなかった。

小学校はお宮(神社)の横にあった。運動場と平屋建ての校舎が1棟。校舎の中には部屋が3つあって、1~3年生の部屋・4~6年生の部屋と、もう一つは校長先生の寄宿部屋だった。校長先生は高学年の生徒を同時に教えて、女性の先生が低学年を受け持っていた。女性の先生は学校近くのお金持ちの家に寄宿していたようだ。

尋常小学校で教えていたのは国語・算数・国史(歴史)・地理・体操・唱歌など。また、当時はメートルやキログラムの単位が使われていなかったので、尺貫法を小学校で教えていた。

小学校の校庭と、お宮

 さて当時、尋常小学校の次は中学校(5年間)か高等小学校(2年間)だった。…が、村の近くにあるのはそこから2時間歩いた畑地にある高等小学校だけ。

じいちゃんの場合は高等小学校に行かなかった。小学4年の時に世界恐慌が起こって日本中が不況になり、働かなくてはならなかったのだ。当時は小学校を卒業すればもう大人扱いだった。働かせずに高等小学校へ行かせるのは「子供を遊ばせる」ようなもの、と考える人も多かった。

一方で、じいちゃんより7歳下だったばあちゃんは高等小学校に通った。だんだんと子供の教育も重視されていったようだ。

 しかし、高等小学校は6km先だ。通学手段は徒歩しかなく、とても毎日通えたものではない。でもばあちゃんと同級生は2年間そこに通った。どうやって?そこの高等小学校には、上槙から来る生徒たちのために、寄宿部屋が作られていたのだ。当時、上槙からは男の子3人・女の子3人(ばあちゃん含む)の生徒がいた。ばあちゃん達は毎週月曜の朝に、一人ずつお米を3升くらい抱えて歩いて通学した。しかも山道をゲタ履きで。

高等小学校の別棟に6畳の部屋が3つあって、男子の部屋・女子の部屋・当直室になっていた。女子は女子、男子は男子でそこで自炊した。たった13~14歳の少年少女たちが、七輪でご飯を炊いてやりくりしていたのだ。村での生活と同じく、ご飯のおかずは味噌かおしんこ。そして土曜日になると2時間歩いて村へ帰って、また月曜の朝にお米を担いで通って行ったのだ。

 ばあちゃんがよく話す、寄宿部屋での思い出話がある。昭和7年(1932年)頃の話だ。夜、ばあちゃん達が部屋にいると、戸のすき間からひらっと紙切れが入ってきた。

 「上槙良いとこ一度はおいで。今もおかごで医者迎え」

上槙は山奥のど田舎だから、お医者さんを呼ぶにもお駕籠(かご)(江戸時代のお殿様が乗ったようなもの。実際に使っていたのはもっと簡単なものだ)を担いでいかないといけないんだヨ・・と子どもたちをからかう文句だ。当直の先生が遊び半分にそんな紙を入れていったのだ。

 「もうっ!先生ったら!」

おばあちゃんたちは怒って先生の宿直部屋に走っていったとさ・・。

(この昔話は何度もばあちゃんに聞かされた。だいぶ記憶に残っていたらしい。)


 4. 村での生活 ③病院もなくお医者さんもいなかった

 「医者(むか)え」。戦前の上槙では本当にこれをやっていた。

上槙の中に医者がいなかったので、村に重病人が出た時は村の男たちが駕籠を担いで医者を迎えに行った。(逆に患者を乗せていくこともあった。)

医者は12km離れた岩松から、上槙の手前までは人力車で来た。しかし、上槙は山に囲まれていて、山道は人力車で行かれない。だから、人力車は山道の手前まで来て、そこから山道を行くのに駕籠を使ったのだ。

 じいちゃんは小学6年の時に「医者迎え」をやったことがある。わりと体が大きく丈夫だったから、かり出されたらしい。

まず、「医者迎えだぞー!」ということになると、「組」の男の人20人くらいが集まってくる。(上槙では村を4つの組に分けて、こういった人手のいる仕事を協力した。他にはお葬式もやった。1つの組は20戸ほど。)駕籠は共用でお寺に置いてあった。

駕籠は前と後ろで2人一組になって運んだ。山道を、それも急ぎの用だから担ぎ手をとっかえひっかえしながら行くので、交代要員がたくさん必要だった。迎えに行くときは空の駕籠を担いで山道が始まるところまで走って行って、お医者さんを乗せて山道を村まで戻っていったのだ。お医者さんの乗った駕籠はけっこう重かったらしい。

 村の中に医者はいなかったが、普段のちょっとした不調に活躍したのが、「富山の薬売り」が置いていく薬箱。ばあちゃんの実家にはなかったが、じいちゃんの家には毎年「薬売り」がやってきた。薬の内容は風邪薬・傷の軟膏やお腹の薬など。「薬売り」は1年で減った分だけ補充していった。