【戦時中】2人とも中国へ

※この話は今回初めて書きました。私が2016年にまとめた「かんまきレポート」には書いてなかった内容。けれど、流れ的にも戦争の時の話が抜け落ちてるのは変だし、何よりも今年は戦後75年で少しは関心を持ってくださる方がいれば・・と思って書いてみます。

※とは言え、まずは要旨のみ。特にじいちゃんの話は長くなるので、もし興味を持ってくださる方がいらっしゃれば、もっと書きます。というか、じいちゃん自身が戦後50年に合わせて自費出版した戦争についての本があります。

…と書きながら、ふっと検索してみたら、じいちゃんの本がアマゾンでありました!(割とビックリ。)中古でも出てるので、リンク貼っておきます。(すみません、リンク3つありますが、アマゾンしか在庫ありません…。)

目次

  1. 兵隊になって人殺しをしたくなかったじいちゃん
  2. 志願して従軍看護婦になったばあちゃん

1. 兵隊になって人殺しをしたくなかったじいちゃん

「人を殺したくなかったんだ。」

そんなじいちゃんは、元々法律の勉強をしていたこともあって、

試験を受けて憲兵として中国の東北部、満洲に渡った。

憲兵というのは、軍隊の警察みたいなもんだ、と本人は言っていた。


ある意味、じいちゃんはラッキーだったと思う。

「人を殺したくない」

という人としてごく真っ当な願いが叶えられて。

「自分は人を殺さずに済んだんだ」という事実は、戦後を生きていく上でもじいちゃんのアイデンティティーの一つになっていたと思う。だからこそ、孫にも戦争の時の話をいろいろしてくれたんだろう。

好んで人を殺したい人なんていない(と信じたい)。

それでも、戦争中は兵隊として挑発されれば、大概は従うしかない。そして、人を手にかけてしまって、それを子や孫に進んで話せる人はなかなかいないと思う。


話がずれてしまったが、そういう訳でじいちゃんは満洲で諜報活動的なことを主にやっていた。(じいちゃんが軍隊に入っていたのは、20歳前後から約3年、そして間を空けてまた徴発されてもう約3年。戦争が終わった時26歳くらいだった。)

1945年8月に敗戦を迎えて、日本に戻ったのは1年後。

帰国できるまで、ソ連軍から逃げたり、旧日本軍の暴動計画に関わったり、かなりスリリングで厳しい日々を送ったそうだ。

無事に帰ってきてくれて、本当に良かった。


2.志願して従軍看護婦になったばあちゃん

一方、ばあちゃんは16〜19歳くらいの時、上槙から宇和島に出て、そこの看護学校で看護師としての実務を身に付けた。

そして、学校を卒業してすぐの1944年(昭和19年)に、自分で志願して看護婦として中国の武漢あたりへ行った。

武漢に行くのも、当時は船旅でだいぶ日数がかかったらしい。船で長江を遡っていくのに、

「日中は攻撃されるといけないから、夜だけ船が進んだのよ。」

と言っていた。

ばあちゃんに聞いた当時の話は食べ物のことばかり(笑)。

日本の数倍でっかいシジミがいたとか、現地の人が日本人のところへ餃子を売りに来た、とか。

じいちゃんによると、ばあちゃんは途中で病気にかかって、あんまり看護婦としてのお役目を果たせないままに敗戦を迎えたんだとか。

ばあちゃんは、1946年7月に引き揚げ船で帰国した。


ちなみに、母方のじいちゃんばあちゃんについては、じいちゃんは当時まだ10代で下関で無線を学んでいる間に終戦。ばあちゃんもまだ少女時代で、上槙にいたんだと思う。