電気も水道もなかった上槙だが、もう一つないものがあった。
それは道路。
リヤカーや人力車、さらには車を走らせられるような舗装された道だ。
「道路なんてどこでも当たり前にあるもんじゃないの?」
と思われるかもしれない。私もそう思っていた。
でも、山の中の集落だった上槙では、どこへ行くにも舗装されていない山道を歩くしかなかった。
山道では、たとえ大荷物を運びたくても、牛や馬の背中に乗っけるか、人力で何とか運ぶしかない。だから「お駕籠で医者迎え」も必要だったのだ。
私のひいじいちゃん、小林茂穂さん(1900-45)はそんな状況を見かねて道路づくりを始めたらしい。
まずは県のお役所に陳情書などを送ったが、取り合ってもらえなかったので自分たちでやるようになった。測量などを勉強し、村の有志の寄付や勤労奉仕によって、まず昭和6年(1931年)に豊後水道を見渡せる力石の道ができた。
他にも町へ通じる道を作ったり、村の家々を繋いでいたクネクネの道を直線道路にした。
戦時中、ひいじいちゃんは宇和島の空襲で大ケガを負ったばあちゃんの妹を、お米と引き換えに人力車を雇って、無理やり山道を越えて上槙まで運んでもらった。妹さんは2020年8月現在、92歳で存命。でも、彼女の片手首はその時のケガの後遺症で曲がっている。
ひいじいちゃんは年齢の関係で太平洋戦争には徴兵されなかったが、終戦の年の1月に結核のため45歳で亡くなった。
だから、幸恵ばあちゃんが従軍看護婦の仕事を終えて上槙に戻ってきた1946年7月、もう幸恵ばあちゃんのお父さんはこの世にはいなかった。
当時ばあちゃん21歳。
ばあちゃんはその時のことを、後年こんなふうに語ってくれた。
「私ね、帰ってお父さんに会えるのを楽しみにしていたの。だって、私が中国に出発する時、お父さん、ぼろの作業着を着たまま、私をバス停まで見送りに来てくれたの。私、その時は友達にそんなお父さんを見られるのが恥ずかしくって、途中で『お父さん、もういいから帰って!』って言ったわ。」
「それで、戦争が終わってやっと宇和島の方まで帰って来たら、トモちゃん(妹)が迎えに来てくれてたの。お父さんも迎えに来てくれると思ってたんだけど、いなかった。上槙までの道すがら、『お父さんは?』って聞くのに、なんかごまかして答えてくれなかったのよ。」
「で、家に着いたら、お父さん死んじゃっていなかったの。その時はなんだかビックリして、気が抜けちゃったなぁ・・。」
当時すでに認知症が始まっていたおばあちゃんが、この話は何度もしてくれた。
初めてこの話を聞いた時、私はとにかく驚いた。
「え、帰ってきたらお父さんがもういなかったの…?おばあちゃん、それは悲しかったね…。悲しい、以外の何物でもないねぇ…。」
言いながら、自分まで涙が出てた。
ひいじいちゃんが亡くなったのは戦争のせいではない。でも、今は治る結核でまだまだ人が死んでいた時代の話。
それでも、ひいじいちゃんが作り始めてくれた道のおかげで、私たちは今でも上槙へ車で行ける。(それでも結構な山道だけど。)きっと、日本のどこでも、最初にこうやって道を作ってくれた人たちがいるから、後世の私たちはその恩恵を受けてるんだな。
ありがとう、ひいじいちゃん。