※このあたりの話は、ギター奪還作戦の頃と多少日にちが前後します。
さて、大学院に通い始めて1ヶ月前後。授業のある教室に(急な教室変更があったとしても!)迷子にならずに行けるようになった。けれど、1か月経ってもまだまだ悩まされていることがあった。コトバの問題だ。
いちばん致命的だったのは、「なかなかみんなの言っていることが理解できない」こと。
インドの二大公用語はヒンディー語と英語。(ちなみに、公用語自体は全部で22言語あるそうな。)もちろん、ヒンディーで話し始められると、私は全く理解できなかった。だから、授業以外の休み時間や食堂でのクラスメイトのヒンディー語会話には、全然付いていけなかった。
それどころか…という話。大学院での授業中に使われるのは英語だ。英語は留学前に猛特訓していったので、なんとかなると思っていた…が、ならなかった。
なぜかというと、それがインド英語と言われるヒングリッシュ(ヒンディー語なまりの英語)だから!
インド英語は、日本の英語教材に多いアメリカ・イギリスのネイティブスピーカーたちとイントネーションがまるで違う。全く違う言語のように聞こえてしまうのだ…。
例えば、ある日の授業で、先生が何度も繰り返している単語が全っ然聞き取れなかった。
「エン×◎△」としか聞こえない。私は隣に座っていた男子アブドゥルに、先生の口真似をして、
「エン×◎△?」
と聞いてみたが、似たような単語をおうむ返しにされるばかり。埒が明かないので、自分のノートを彼の方にずらして、
「スペルは?」
と言って単語の綴りを書いてもらったら…
environment(環境)
という超簡単な単語でびっくりした。
こんな風に、よく知っているはずの単語でも、インド英語マジックにかかると、たちまち異国の言葉に早変わりしてしまう。(結局、だいたいのインド英語を理解できるようになるまで、1年以上かかった。)とは言え、日本人の英語も似たようなものかもしれない。
あとは、語彙に関しては自分の知識不足で知らない単語も多かったので、授業に電子辞書は必須だった。(当時のインドでは電子辞書は珍しかったらしく、同級生に「何それ、コンピューター?」とよく聞かれた。)
ついでに言うと、いくら英語に備えたとしても、事前知識がない話題についていくのは難しい。だから、インドの社会・文化などの話は、知らない単語が出てきたらその場で聞くべし。
そんなこんなで、毎日ちんぷんかんぷんな中でやっと気付いた。7月11日の日記より。
「自分は授業の中身をみんなよりだいぶ分かってないから、人より努力せなあかんのだ。」
ということで、それ以降は授業の受け方を少し変えてみた。
それまでは、授業中は先生が説明するパワーポイントの内容をノートにメモするのに必死になっていた。でも、パワポに関しては、先生にお願いしたらファイルを自分のUSBメモリにコピーさせてもらえることが分かった。また、授業によっては“moodle”という名のオンラインシステムの中にパワポのデータが入っていた。だから、授業中はメモはそこそこにして、先生の話を集中して聴いて、極力内容を理解する。そして、授業の後にパワポで復習しよう!という戦法にした。
そしてもう一つ。コトバの壁にはもう一面あった。
それは「自分の思っていることを、英語でうまく表現できない」ということ。
留学が始まって2~3ヶ月の間は、頭の中でまず日本語が出てきて、それを英訳…という流れで話していた。
まだその段階にいた時、7月9日(月)のグループ・ラボの時間に原子力発電の話題が出た。東日本大震災と、福島の原発事故から、1年4か月後だった。
インドのインテリ層である先生と同級生も、当然その事故のことを知っていた。そして、当時インド政府は原発を推進しつつあった。同級生の男子は「原発導入を進めるべきだ」と意見を言っていた。私は、なんとかして原発の危険性を伝えなきゃ…と思って懇願するような気持ちで先生に手を挙げた。先生は私の気持ちを汲み取ってくれたようだった。
「今、私たちが最も耳を傾けなければいけない友人がいます。」
そう言って、先生は私に発言のチャンスをくれた。教室のみんなが、私に注目する気配がする。
それなのに…言葉がちゃんと出てこなかった。
「私たちは、原発を作るべきじゃありません…日本ではひどい事故がありました…」
このくらいをなんとか絞り出した。あとは頭の中を「原発は危険」とか、そんな日本語がぐるぐる回るばかりで、ちっとも合理的な理由を英語で説明できなかった。もどかしくて、悔しかった。
その日の夕方、帰宅してキッチンでムクタに「今日はどんな日だった?」と聞かれた時、その授業での悔しさが込み上げてきて、インド生活で初めて泣いた。ムクタと、その時家にいたカリッサが慰めてくれて、ムクタが夕飯にパスタを作ってくれた。ありがとう…。
ともかくも、自分の思いを英語で伝えるには、ひたすら実践あるのみだった。私の場合、ルームメイトのジョーと夜に
「How was your day?(今日はどんな1日だった?)」
「今日はこんなことがあってね…」
という会話をしていたのが、一番の練習だった気がする。
コメント
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言葉で苦労したのですね。外国へ行ったことはありませんが、29から33歳頃まで海運ブローカーとして働いていました。その時に、アメリカからのお客さんが来て、初日、会話するのにかなり苦労しました。間違えずに言いたいと考え込んでしまうことが一つですが、何よりも慣れていないのが一番の問題だったと思います。
授業となると、理解して試験も受けなければいけませんから、大変ですし、必死ですね。そういう背水の陣のような勉強方法は荒っぽいですが、しっかりと身についたのではないでしょうか。
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>アヨアン・イゴカーさん
いつも読んで下さり、ありがとうございます。開運ブローカーですか。面白そうなお仕事ですね。はい、そういう意味では大分鍛えられましたね。