3. 残っていた人たち(2015年)
2015年1月、母方のじいちゃんの七回忌で宇和島に行った。
その時、幸恵ばあちゃん・ノブヱばあちゃんと父と私とで上槙まで足を延ばした。東京から愛媛まで来るのもなかなか難しくなった父方の幸恵ばあちゃん(当時89歳)に故郷の上槙を見せてあげようね、というのが目的だった。
標高が宇和島よりも高い上槙は寒かった。道のアスファルトや白いガードレールがやけに新しく立派に見える一方で、村の中の人気はほとんどない。上槙のある津島町は、10年くらい前に市町村合併で宇和島市に吸収された。
まず、父方のじいちゃんばあちゃんが住んでいた場所「おおたね」(家号)を訪ねた。
山の間で谷になっているわずかな平地。日当たりがよくなさそう。家があったところはもう畑になっていて、その近くに親戚の家が建っていた。親戚のおじさんは病院に行っていて留守だった。
次に、母方のノブヱばあちゃんの知り合いのお家を訪ねて行った。道端に車を止めて歩いていく。民家が数軒立っていた。
「これ空家よ。」
「あれも空家よ。」
ノブヱばあちゃんが指をさす。家がそこそこあるように見えて、住人のいないところが多いらしい。知り合いのお家も留守だった。
「病院でも行っとるんかな。」
ばあちゃんが呟いた。近くの斜面の畑には、動物除けの電気柵が設置されていた。
そこから川を挟んだ反対側の山の斜面には、幸恵ばあちゃんの昔のお隣さん「花ちゃん」が一人で住んでいた。
えらい急な坂を車で上がって駐車。横には崩れそうな廃屋があった。花ちゃんの家は立派な日本家屋だ。
「こんにちはー!」
「あらぁ、こんにちは。どちら様かな。」
玄関先で20~30分立ち話した。花ちゃんも90歳近く見えた。声がでかい。お隣さん同士が数十年ぶりに再会して、二人ともニコニコしていた。
花ちゃんが谷の逆側の家(さっきお留守だったところ)を見ながら言った。
「あそこで洗濯物が掛かってるのを見て、こっちもがんばらなきゃって思うのよ。」
この言葉はなかなか印象的だった。残っている人たちが、それぞれを意識しながら生活の励みにしている言葉。
その後、私たちはノブヱばあちゃんのお姉さん夫婦の家に寄って、それから上槙の一番端っこの山の上にある、親戚の人がやっている「豚屋さん」を見に行った。
途中で工事用みたいな大きなトラックとすれ違った。対向車は珍しい。豚屋さんに至る山の中腹には、幸恵ばあちゃんと母の実家跡(家号のぼりはえ)がある…と言っても、もう林に覆われてしまってそれらしいものは何もない。よく進じいちゃんが「上槙のどん詰まり」と表現する場所。
『こんなところに住んでいたのね。』と思いながら通り過ぎる。
豚屋さんは、幸恵ばあちゃんのいとこのお子さんが経営していた。上槙には住まずに、その手前のところから通ってお仕事しているようだ。
駐車場に車を止めて、ばあちゃん達は少し疲れているようだったので、父と私で豚屋さんの様子を見に行った。左手側に、大量の土がこんもりと積まれている小屋がある。その奥の建物に人がいた。
「こんにちはー!」
豚屋さんのおじさんは、
「東京から90歳のおばあちゃんが来ているらしい。」
という情報は知っていた。
さっき見た大量の土は腐葉土で、豚のフンを混ぜて作ったものを無料で農家にあげているということだった。奥までは行っていないので、豚は見なかった。
向こうの山には発電用の巨大な風車が見える。風車は何年か前に作られたもので、風車からの角度によっては回転音が気になる家もあるようだ。豚屋さんの位置は大丈夫らしい。
近年、上槙を少しでも活性化させるアイデアとして、お遍路さんに無料で泊まってもらうように空き家が解放されている、という話を聞いた。(上槙には四国八十八か所の札所はないが、お遍路道の一つがそこを通っている。)
豚屋さんからの帰り、また長いトラックと行き違った。(東京に帰ってじいちゃんにその話をしたら、上槙で昔からのお金持ちKさんがやっている建設会社かもしれない、と言っていた。)
最後に、上槙で唯一のお店(小さな食料・生活雑貨店)に寄って、唯一の選択肢だった菓子パンを買った。お昼の時間をとっくに過ぎていて、みんな腹ペコだった。お店のおばちゃんはノブヱばあちゃんと顔見知りだった。
「これ持ってきさいや(持っていきなさい)。」
「変な気遣わんでええ。」
おばちゃんとノブヱばあちゃんがさんざん押し問答して結局、ホットの缶コーヒーと甘酒をお土産にもらって帰った。
その後、結婚した私は2019年6月に旦那さんと宇和島を訪ねた。
ノブヱばあちゃんに「上槙を見に行きたいんだけど。」と言ったら、
「もう(親戚は)誰もいないよ。」
と言われた。
そのおじちゃんおばちゃん達は、まだ生きていて住所は上槙にあるけど、高齢すぎてみんな施設に入ってしまったのだ。
ともあれ、3人で上槙を訪れた。この「かんまき物語」で使われている写真は、ほとんどその時に撮ったものだ。ノブヱばあちゃんが言った通り、2015年に訪ねた人たちはもうそこにはいなかった。
幸恵ばあちゃん達が暮らした「おおたね」(家号)と幸恵ばあちゃんの実家「のぼりはえ」(同)を見て、おおたねやその途中でノブヱばあちゃんがシキビ(こちらの記事参照)や紫陽花、サンキラの葉(蒸し饅頭の下に敷く、ツルツルした葉っぱ)を収穫して帰った。