まず7月13日金曜日のこと。
午後にフィールドワークのためのオリエンテーションがあった。どの学生がどこのNGOに配属になるのかが発表されるのだ。
(6月の4週目から7月の1週目にかけて、毎週1ヶ所ずつ訪問したNGOの見学レポートや希望調査を元に割り振りされた。)
私のフィールドワーク仲間は、前回紹介した女子2人メジとサム。で、私たちがこの1年間行くことになったのは、A財団。(前述の通り、許可をもらわずに書いているので団体名は伏せます。)
「A財団?」
サムとは同じ専攻だったけど、ほとんど初対面状態。メジとは完全に初めまして。A財団の名前ももちろん初耳で、私たち3人はとりあえずフィールドワーク初日に学校の最寄駅ゴバンディで9時くらいに待ち合わせすることにした。
で、一応フィールドワークに行く前日の日曜日、家でA財団についてインターネットで下調べ。けっこう大きい団体のようだった。団体の目標は「貧困の撲滅」。インド各地で活動していて、主に力を入れているのが
①子どもの権利を守る(教育など)
②安全な飲料水を供給する
③職を得るための職業訓練を実施する
ことだった。
さて、記念すべきフィールドワーク初日、7月16日月曜日。
A財団はムンバイの中心部にあるダーダーという大きな駅の近くに事務所があった。学校の最寄駅からだと電車を2本使って小1時間かかる。その時は私は行き方がよく分かっていなかったので、サムたち任せだった。(と言っても、彼女たちもムンバイ出身じゃないので、駅や道で人に聞きながら連れて行ってくれた。感謝・・。)
10時過ぎに事務所に着いた。事務所があったのはビルの3階。エレベーターに乗るのに、例の自分で開ける蛇腹式ドアをジャララッと開けて、3人で乗り込んで、ジャララッ、バーン!と閉める。3階に着くと、事務所のドアを開ける。
冷房が効いてる。(お金持ち臭がするっていう意味。)
中にいたスタッフらしき女性に、サムが声をかける。
「おはようございます、マダム。私たちはタタ社会科学研究所から来た学生です。今日からフィールドワークなんです。」
その女性はふんふんと聞いてて、
「そこで待ってて。」
と言って他の人に話しに行った。
けっこう待たされた後に、スキニーなピンク色のクルタ(インドのカジュアルな民族衣装の半袖チュニック)を着て、眼光鋭い女性が私たちのところに来た。
「あなた達が来ること、学校から連絡もらってないわ。でも説明してあげる。こっちの部屋に来て。」
「アッチャー・・。」
(困った時にも使える便利なヒンディー語。この場合、意味はほとんどそのままで、『あれまぁ。』逆に、ポジティブな意味で使う時は、イントネーションを上げれば『わーお。』『いいねぇ。』という意味になる。)
彼女は20代半ばくらいで名前はクリパ。彼女は5〜6脚椅子のある小さな会議室に私たち3人を案内した。そして、ホワイトボードを使いながら団体の話や彼女が関わっているプロジェクトの話をしてくれた。
「私たちのNGOはインド全土で様々なプロジェクトを行っているけど、ムンバイでやっているのは教育ね。」
彼女はホワイトボードに「ムンバイ公立学校プロジェクト」と書いた。クリパは2012年当時、そのプロジェクトに加わったばかりの新任者だったらしい。
「私たちは28校の公立小学校に2人ずつファシリテーターを送り込んでいるわ。学校運営に協力しているの。」
「その中でも、英語教育を主にやってます。また、生徒だけでなく学校の教師達にもトレーニングプログラムを行なっています。」
「他には、ティーチング・アシスタントを小学校に送っているわ。」(これが、サムがこの後1人で、小学校の一つに行ってやることになったお役目。)
私は話について行くだけで精一杯だったけど、サムは色々質問もしていた。
サム:「マダム、これについては・・・。」
(当時の私は、サムの英語も100%理解できてなかった。)
クリパ:「(質問に答える)」
「ところで、私のことはマダムじゃなくて名前で呼んでちょうだい。人を名前で呼ぶことは、敬意を示す意味でも大切よ。」
インド人学生は女性の先生のことをよく「ma’am」(マーム。Madamマダムの短縮系。)と呼ぶ。サムもクリパに対してそれを連発していたのだけれど、こう言われてからは、たまにまだ「ma’am」が出つつも、名前で呼ぶように努力してた。
クリパは13時前くらいまでなんだかんだ説明をしてくれて、
「ランチの後にこの資料を読んでおいて。」
と、2部くらい英語の資料を置いて去っていった。
ランチはそのまま事務所で、持っていったものを3人で食べた。フィールドワークが決まる前のNGO見学で、先生に
「フィールドワークではいつご飯が食べられるか分からない時もあるから、ビスケットなんかを携帯しておくといいわ。」
と言われていたので、私はスーパーでパルレGというビスケットを買って、タッパーに入れて持って行ってあった。日本のダイジェスティブ・ビスケットと、ビスコの合いの子みたいな感じ。けっこう美味しい。ごはんには正直もの足りないけれど。
写真の引用先:http://mikindia.blog.fc2.com/img/kidzaniaparle.jpg/
サムはお米のパフみたいなスナックを持ってきて食べていた。(メジのは忘れた。)それを見て、帰りにスーパーでスナックも買って帰ろうと思った。
さて、午後は同じ会議室で資料読み。
3人で読むのはなかなか大変だった。というか私だけ。
資料が1人に一部ずつあるわけじゃなかったので、3人で同じ資料を1ぺージずつ読んでいった。サムとメジは英語慣れしているので、読むのが早い。2人が読み終わった後に焦りながらも読んで、「OK!」と頷いて、またその繰り返し。疲れた。
ともあれ、それも14時くらいには終わってしまった。
その後は「帰っていい」と言われたので、また3人で電車に乗って学校に帰った。正直、『まぁ初日だし、こんなもんか〜。』という印象。
15時すぎに学校に到着。フィールドワーク担当の先生(スーパーバイザー)のスニル先生に会いに行って、翌日は先生も一緒に団体事務所に行くことになった。
スニル先生は、見るからに南インド人です!という外見の、地黒の穏やかな男性。30〜40代。先生には、
「ヒンディー語しゃべれるの?」
「水は何て言うか知ってる?」
と聞かれ、私はそれすら知らなくて恥ずかしかった。
「pani(パニ)だよ。」
と教えてもらって、もう少し勉強するように言われた。
はい、おっしゃる通りです・・・。
その夜のこと。
下宿先に帰ってメールをチェックしていたら、東京の音楽繋がりの人からメールが入っていた。
「こんにちは。お元気ですか?突然ですが、Mさんが亡くなりました。・・・」
Mさんというのは、私が行っていたギター教室で一緒に発表会に出たことのある50代くらいのおじさん。発表会が冬だったので、ギターを弾き語りするのに手がかじかんで寒がっていた私に、Mさんは演奏前に手袋を貸してくれた。
あんなに優しくて元気なおじさんだったのに・・。
メールの画面を見ていた視界が、じんわり滲んできた。
Mさんのご冥福を祈りながら、ボロボロ泣いた。
Mさんのことは突然だったけれど、私は東京にいる高齢の祖父母のどちらかがこんな風になってしまうのを恐れながら、インドへやって来た。
「みやまが帰ってくるまでは生きているからね。」
と冗談半分で言っていた祖父母。
Mさんのことを祈りながらも、祖父母のことを考えずにはいられなかった。
しばらく居間で泣いていたので、同居していたフランス女子エレンが気付いて「どうしたの!?」と心配され、エレンは「ミヤマが泣いてる!」とその時家にいたアメリカ女子カリッサを連れて来てくれた。
実際、「どうしたの!?」と聞かれて、拙い英語で説明するのは大変だった。なんとか「知り合いのおじさんが亡くなってしまった。」と伝えると、カリッサは真面目な表情で、
「I’m sorry, Miyama. I’m really sorry.」
と言った。
『英語では、こういう時にこう言うんだ・・。』
と半ば呆然としながら思った。
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