1年目フィールドワーク(2012年7月〜2013年3月)⑩ふたつの小学校

連載-インドがわたしの故郷になるまで

 (9月10日のお話の続きです。)

 午前11時ごろメジと私は、新しいフィールドワーク先の一つ、J小学校に到着した。

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(J小学校の入口)

 校門の横にある警備員室の前は難なく通過。私たちを案内してくれたラジャシェイカー氏に連れられて、3階にあるNプロジェクトの学習センターへ。

 その部屋の前には、数十足のサンダルが内側を向いてガタガタに並んでいた。中からは女の子たちの声。

 靴を脱いで中へ入ると、「学習センター」は20畳弱のほぼ真四角の部屋だった。南向きの窓から光がよく入る明るい部屋。

 白いチュニックに紺色のショール・パンツというインドならではの制服を着た女の子たちが、学年ごとに車座になってあぐらをかいて座っている。(インドでは女性もあぐらをかいて座るのがごく普通だ。)50人くらいいて、窮屈そう。短パンを履いた男の子も2人いる。床には赤い麻みたいな素材のマットがつぎはぎみたいに何枚も敷かれていた。

(写真を撮ったのはこのお話とは別の日です。)

 奥にサリーを着た女性が2人いた。先生かな?

ラジャシェイカー氏はその人たちのところへずんずん進んでいく。

 部屋の壁にはいろいろ貼られている。

インドの偉人の絵(ムンバイの昔の王様や、インド憲法の父アンベドガル博士)、

子どもたちの名前(名簿?)、

マラーティ語のアルファベット表(その学校はムンバイのあるマハラーシュトラ州の言葉マラーティで教科を教える学校だった)などなど。

「ハロー!」

「ハロー!」

女の子たちの横を通ると、挨拶してくれる。笑顔がかわいい。

 女性2人の内1人はNプロジェクトのコーディネーターさんで、私たちが来るから説明のために来てくれたらしい。もう1人は「コミュニティ・アクティビスト」と呼ばれる先生だった。

 コーディネーターのおばちゃんによると、

「女の子たちの中には父親が失業中の家庭も何軒かある。」

「母親たちのほとんどはメイドとして中流・上流階級の家に働きに行っている。」

らしい。

 おばちゃんも先生もヒンディー語で喋るので、メジが聞き取ったことをまとめて英語で私に説明してくれた。

 女の子たちは学年ごとで座って、それぞれ自習をしていたらしい。その時部屋にいたのは2年生〜8年生だった。(インドの小学校は8年間。)

 真面目にノートに何か書き込んでいる子、おしゃべりしながらやっている子、ぼーっとしているように見える子、そして下級生の勉強を見てあげている最上級生・・。

「女の子たちは英語を読むのと文法が苦手だから、教えてあげてね。あなたたちには特に5〜7年生を見て欲しいわ。」

とコーディネーターのおばちゃんに言われた(とメジが通訳してくれた)。

 そう言うおばちゃんにももっと英語教育が必要そうだけどね・・。

ともあれ、これから毎週月曜日のフィールドワークはここに通うことになる。12:30までそこにいて、それから2校目のS小学校に移動した。

 火曜日のフィールドワークで行くことになるS小学校は、J小学校から歩いて10分ほどしか離れていないのに、そもそも周囲の環境からして違っていた。

 J小学校は、前回書いたように学校自体もきれいで、学校の周りもある程度整然として落ち着いていた。Nプロジェクトの部屋も手狭だけど、全体的に明るく、壁の掲示物なんかも整理されていて、子どもたちも割と大人しくまとまりが良かった。

 一方、S小学校に行くには、まず駅から続いている商店街の反対側に渡る。

J小学校はムンバイ・ローカル電車の中央線(セントラル・ライン)の線路のほぼ横に建っていたが、S小学校は中央線よりも西側を通る西線(ウェスタン・ライン)の線路が学校のすぐ裏手を通っていた。

 商店街から折れて学校へ行く道沿いには、古びたアパートが並んでいた。道端にはゴミが散らかっているゴミ捨て場が何ヶ所もあって、茶色いニワトリや痩せたネコがそこら辺を歩いている。

 学校のすぐ近くの角には、貧困世帯向け(おそらく)の水や料理油の配給車が来るらしく、たまに空っぽのタンクを手に人々が列を作って並んでいるのを見た。

 そして、S小学校の校舎の目の前から、その先の線路沿いにかけて、鉄板や黒ビニールで作られたスラムの家々が続いていた。(後で聞いたが、そこのスラムの家からもNプ
ロジェクトに来ている女の子がいた。)

(S小学校の前。左が小学校の塀。右側がスラム。ちなみに、赤い服の女性はメジ。)

(S小学校の正面。)

 さて、学校も学校で灰色のおんぼろコンクリート造りだった。

3階建てだったろうか、しかも1階にはなぜかその地区の選挙管理委員会みたいな事務所が入っていた。

 小学校の入口の警備員の横を抜け、選管とは逆方向に進んで、「Room To Read」(アメリカ発祥の教育系NGO)のボードが付いた図書室を過ぎれば、Nプロジェクトの部屋だ。

 S小学校のNプロジェクトの部屋は広かった。

一つ目の学校の2〜3倍はあった。横に長くて、女の子たちは走り回ったり、歓迎の印にボリウッド映画のダンスを踊ってくれたりした。まぁ、その反面、壁や天井は校舎よろしくくすんだコンクリートだし、下に敷いてあるエンジ色マットも古くてクタクタ。おまけに部屋の右側の壁には、ロッカーやら訳の分からないものがゴチャゴチャ積んである。

 でも、女の子たちは超元気だった。

「ハロー、ティーチャー!」

「ハロー、ティーチャー!」

「名前は何?」

「私の名前は○○○○○よ!」

 人懐こくて、知ってる英語を使ってなんとか私やメジとコミュニケーションしようとしているのが伝わってくる。2人いた先生(コミュニティ・アクティビスト)の女性たちも優しかった。彼女たちもそんなに英語が話せなかったけれど、生徒たちが英語で話すのをサポートしていた。

「あなたの宗教は何?」

この質問には面食らった。

「仏教徒だよ。」

と簡単に済ませたけれど。

『インドでは、小学生の女の子が初対面の質問で宗教を聞くんだ・・。』

それだけ、宗教はインド人の子どもには大きな影響があるんだろう。女の子たちはみんなヒンドゥー教徒だった。

 コミュニティ・アクティビストの1人、プシュパ先生によると、

「女の子たちは英語の基礎が必要。多くの子は時制が理解できない。」らしい。

また、もう1人のレカ先生は、

「今度、子どもたちの状況を理解するためにも、女の子たちの家へ家庭訪問に連れて行ってあげる。」と言ってくれた。ありがたい・・。

 最後に、帰る前に学校のおトイレを借りたらすごかった。

Nプロジェクトの部屋のすぐ前が女子トイレだったのだが、3〜4つある個室の内、使用可能なのがわずかに1〜2つ。あとの個室は、壊れた便器のオブジェか、開かずのトイレになっている。

 かろうじて使えたトイレも、鍵はカタカタで今にも壊れそう、小さなバケツに水を注ぐ蛇口もたまに水が出ない。それでも、駅のトイレよりはマシかな・・・(笑)。

(トイレットペーパーなしのインド式トイレの使い方は、ぜひこちらをご参考に。)

 ラジャシェイカー氏は、メジと私を先生2人に紹介して既に去っていた。私たちは14時半過ぎまでS小学校にいて、それから遅いランチを商店街の食堂で食べてから帰った。

 

私「英語のレッスン、何をやろうね。」

メジ「まずは自己紹介の仕方かな。」

私「そうだね。家帰って英語の教え方調べてみよう・・。」

1日のうちにいろいろ経験したので疲れたけど、やっと現場に出られて嬉しかった。

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