【戦前】陸の孤島・村での生活①食べもの

 これはおよそ昭和元年(1925年)から1945年の終戦前後の話になる。じいちゃんばあちゃんの幼少期から青年期にかけての話だ。

目次

1. 陸の孤島〜どこへ行くにもひたすら歩くしかなかった〜

2. 村での生活 ①どんなものを食べてたの?

1. 陸の孤島〜どこへ行くにもひたすら歩くしかなかった〜

今でも、宇和島からこういう山道を越えていく。

愛媛の山奥のそのまた奥にあった上槙は、陸の孤島のような集落だった。

山の合間の細長い4kmほどの平地に、約80戸3百数十人が住んでいた。

「となり」の集落までは徒歩1時間。一番近い町、畑地(はたじ)までは徒歩で2時間。その先に、買い物をするのに「だいたい何でもそろう街」岩松があった。上槙から岩松の中心部までは歩いて3時間。

しかも、歩くと言っても上槙の周辺は狭い山道ばかりで、車の通れるような舗装道路もなかった。どこへ行くにもひたすら歩くしかなかった。

その地方で一番栄えていた城下町の宇和島に行くには、6時間歩くか、または畑地まで2時間歩けばバスも通っていた。でもバスは1時間に1~2本あるかないかで、乗客が満員のこともあった。そうすると

「満員です~。」

と言ってバスは停留所を通り過ぎてしまう。うまくバスに乗ったとしても、戦前は石炭車で馬力がなかったため、登り坂に差し掛かるとバスは進まなかった。すると運転手が後ろを向いて言う。

「お客さん、降りて押してください。」

お客さんたちはバスを降りて坂の上までバスを押す。のどかな時代である。


2. 村での生活 ①どんなものを食べてたの?

上槙の人たちは、戦後に初めて電気が通るまで、江戸時代とほとんど変わらない生活をしていた。

もちろん、ガスもない。代わりにあったのはかまどといろり。

どちらも木を燃やして煮炊きに使ったから、焚き木取りは大事な仕事だった。

ごはんは一日3食で、夏は午後3時にも食べた。

食べ物は、とにかくお米と蒸かしたサツマイモ。ただし、じいちゃんの家もばあちゃんの実家も、田んぼが狭くて十分にお米が収穫できず、サツマイモや麦を混ぜたごはんが多かった。

白いご飯はごちそうだった。おかずは、朝ご飯だと味噌やお新香。とにかくご飯をいっぱい食べたそうだ。

お昼や3時の「おこんま」(こんまい=細かい食事)も朝とほぼ同じ。晩ご飯には、ご飯とおかずが何か一品付いた。煮物(具はサトイモ・ゴボウ・ニンジンなど)やみそ汁、魚を煮たり焼いたり、うどんを打ったりした。野菜は自家製だ。

また、ニワトリを家で飼っていたようだが、卵は病人によく食べさせた。当時のじいちゃんのごちそうは、ゴボウやじゃこ天の煮しめが入った混ぜご飯だった。

魚は、海沿いの集落の人が朝早く、てんびんで担いで

「生きてるよ~!」

と言いながら売りに来た。

肉を食べることは稀だった。猟をやっている(つまり猟銃を持っている)人がいて、たまにイノシシを打ち取ってみんなで分けて食べた。

また、耕作用に買っていた牛が死んだときは、近くの町の部落の人を呼んできて、解体してもらって焼いて食べた。

お菓子と呼べるものはほとんどなかった。親が岩松(3時間歩いていくところ)に行くとき、子供だったばあちゃんはよく「アメ玉飼ってきて」とねだったそうだ。大人はメモもなしに着るものやら瀬戸物(お皿)やら、ちゃんと揃えて買ってきた。それ以外に、お餅はよくついた。できたお餅は素のままやあんころ餅にして食べた。また、お祝いの時にはこんにゃくや豆腐を手作りして、お刺身も並べた。

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