前回の暴動のほとぼりも冷めて、8月27日(月)からメジと私はまたフィールドワークに行き始めた。それは窓際族への逆戻りだったのだけれど、ある日突然、風向きが変わって来た。
(フィールドワーク先に行くための乗り換え駅、クルラのプラットフォーム上にある雑誌屋さん。こっそり撮ったつもりだったのに、おっちゃんがしっかりカメラ目線だった・・。)
8月29日(水)。
その日は午前中に学校で「フィールドワーク・セミナー」が開かれた。
いつもなら、学生個人と担当教員だけでフィールドワークの反省や振り返りをする時間だ。今回は、それよりも大人数でフィールドワークのフィードバックをする場。私たちソーシャルワークの学生は、行っているNGOの活動内容「教育」「保健」「仕事・生活のための手段」ごとに、3つの教室に別れて集合した。
私・メジ・サムは「教育」分野の部屋。
そこのまとめ役だった先生は、南インドのタミル・ナドゥ州出身のジョセフィン・マダム。彼女はその後、私の修士論文の担当教員をしてくれた先生で、黒い肌で眼光鋭く、スキニーな身体にいつも民族衣装クルタを着ていた。
「さぁみんな、通っている団体ごとに、自分たちが今どんな仕事をしているのか教えてちょうだい。」
マダムの言葉で、学生たちは順番に発表を始める。
学生が通っているのは全部で10団体くらい、それぞれ配属された2〜4人で発表。
「バスを教室代わりに使って、マラーティ母語の子どもたちにヒンディー語を教えています。」
(これは、以前フィールドワークの事前見学で私を助けてくれたアンシュの団体。)
「どこどこで何々をしています。」
みんな生き生きと自分たちの経験をシェアしていた。
一方で、メジと私の気持ちは暗かった。
『窓際族状態で、何を言えば良いんだろう・・?』
2人で顔を合わせて苦笑。
ともあれ、真実を語るしかない。
ほとんど最後になって、私たちの番が来た。
サムが口火を切る。
「マダム、私は小学校に行っていますが、メジワンとミヤマはほとんどすることがないんです。」
で、メジが事務所で私たちが何をしているのかを説明。
ジョセフィン・マダムは呆気に取られた顔をしていたが、一通り話しを聞き終わってから、こう言った。
「そんなの、フィールドワークとは呼べないわ。あなたたちは何も学んでいない。」
痛いお言葉・・。
そこからがひと騒動だった。
ジョセフィン・マダムは他のソーシャルワークの教授たちにも働きかけて、現状をなんとかしようとしてくれた。マダムに言われて、サム・メジ・私は重鎮の教授たち3人ほどの部屋を訪ねて、状況を説明した。
31日(金)には、そもそもの私たちのフィールドワーク担当のスニル先生に呼ばれて、「フィールドワーク先をA財団から別のNGOに変える。」と言われた。
翌週月曜日はフィールドワークの日だったけど、先生に「調整中だから行かなくてよろしい。」と言われて、別の課題を与えられた。
そして、火曜日は「今日は普通に行って来なさい。」と言われた。『これでこの財団にくるのも最後か・・。』なんて思いながらオフィスに行った。
インターン生担当のクリパからは、「学習障害のある1年生のための、7月分の『環境』(Environmental Studies )の授業コンテンツを考えなさい。」という指示が来た。
(インドの学校での「環境」の科目は、環境問題などについて横断的に社会科・理科と道徳科をミックスして考えるような内容だ。)
メジの専攻は「障害者ソーシャルワーク」だから、この指示はお門違いではないけど、私の方は「学習障害」についても「環境」についてもほぼ素人。毎度ながら、『クリパはこの授業案を私たちに作らせて、ほんとに使うのかなぁ・・?』などと思いつつ、メジと2人で取り組んだ。
9月7日(金)。
その日、メジと私はお昼の後ジョセフィン・マダムに呼び出された。
「メジワン、ミヤマ。あなたたちには、来週からA財団の他のプロジェクトでフィールドワークをしてもらうわ。」
おぉ・・。別のNGOではなくなったのですね。
「A財団に行って話してきたんだけど、そこでマドゥラ(私たちの大学院出身で、財団で働いている女性)に泣きつかれたの。『お願い、ジョセフィン。学生たちを引き上げないで。』ってね。」
そりゃあ、A財団(NGO)からすれば、彼らはソーシャルワーク(社会福祉)を実践している団体なのに、ソーシャルワーク大学院からのインターン生をうまく使えずに学生を引き上げられた・・なんて話が外に出たら恥だろう。
メジや私にしてみても、窓際族から抜け出して現場経験が得られるなら同じ団体でOK。ということで、次の週のフィールドワークの日はまずオフィスに行って、新しい担当者から話をしてもらうことになった。
さぁ、月曜日からどんな新しい経験ができるのでしょう?(わくわく)
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